イラン、ノウルーズ体験:古代ペルシャの春と家族の絆に触れる
古代からの響き、春を迎えるペルシャの魂
私はこれまで世界の様々な祭りに参加してきましたが、とりわけ文化的な深みや歴史的背景を持つ祭りに強く惹かれてきました。今回ご紹介するのは、イランの新年、ノウルーズです。ノウルーズは単なる暦上の新年ではなく、春分の日にあたる太陽暦の新年であり、古代ゾロアスター教に由来する世界で最も古い祭りの一つとされています。その起源は紀元前3000年にまで遡るとも言われ、ペルシャ文化圏を中心に広く祝われています。
なぜノウルーズに興味を持ったのかといえば、それはこの祭りが「再生」や「希望」を象徴し、また家族や地域社会の絆を非常に大切にする祭りであると知ったからです。物質的な側面だけでなく、精神的な豊かさや人々の繋がりが色濃く反映されている点に、深い魅力を感じました。ガイドブックには春分の頃のイランは美しいと書かれていますが、祭りの本質に触れるには、そこに暮らす人々の営みを知る必要があると考えたのです。
ハフト・スィーンとチャハールシャンベ・スーリー:準備と浄化の炎
ノウルーズは春分の日から始まる約2週間の期間を指しますが、その準備は数週間前から始まります。特に印象的だったのは、「ハフト・スィーン(七つのS)」と呼ばれる食卓の準備です。これは、イランの家庭でノウルーズ期間中に飾られる特別な飾り棚で、ペルシャ語で「S」で始まる7つの品々(例:サーブゼ=芽出し草、セッケ=金貨、セィーブ=リンゴ、スィール=ニンニク、ソマグ=スマック、セレンジビーナ=酢、セマヌー=麦芽プディングなど)が並べられます。それぞれの品には、再生、繁栄、健康、愛、忍耐といった象徴的な意味が込められています。ある家庭でこの準備を見せてもらった際には、家族みんなで品々を選び、食卓を飾る様子から、この祭りがいかに家族の共同作業であり、願いを込める大切な時間であるかを肌で感じることができました。
ノウルーズ直前の火曜日には、「チャハールシャンベ・スーリー」と呼ばれる火祭りが行われます。街のあちこちで小さな火が焚かれ、人々はその火を飛び越えます。「私の黄色い病気(弱さ)をあなた(火)にあげ、あなたの赤い力(健康)を私にください」と唱えながら火を飛び越えるのです。これは、火の力で過去一年間の不運や病を清め、新しい年を健康で迎えるための浄化の儀式です。夜が更けるにつれて、街には無数の火が点り、人々が高揚した声と共に火を飛び越える光景は圧巻でした。火の熱、人々の歓声、そして古くからの慣習が持つエネルギーが一体となり、五感を強く刺激する体験でした。ある場所では、飛び終わった地元の方と目が合い、言葉は通じずとも、火を飛び越えた後の清々しい笑顔から、共有した高揚感と文化への敬意を感じ取ることができました。
新年の挨拶と家族の温もり:イード・ディダーニー
ノウルーズ本番の春分の日を迎えると、いよいよ新年が始まります。この期間中の最も特徴的な習慣の一つが、「イード・ディダーニー」と呼ばれる親戚や友人の家を訪ね合う新年の挨拶回りです。特に、年少者が年長者の家を訪ねるのが伝統的な順番です。
私も幸運なことに、ホストファミリーや知り合った地元の方々の家庭に招かれ、このイード・ディダーニーの一部を体験することができました。どの家でも、ハフト・スィーンが飾られた美しい部屋に通され、甘いお菓子やフルーツ、そしてチャイ(お茶)が振る舞われます。会話の中心は家族のこと、健康のこと、そして新年の抱負などです。物質的な豪勢さよりも、訪れる人をもてなす温かい心と、家族や親戚との繋がりを何よりも大切にする姿勢が強く感じられました。
ある年配の女性のお宅では、代々受け継がれてきた古い絨毯や調度品に囲まれながら、ノウルーズにまつわる古い言い伝えや家族の思い出を静かに語ってくださいました。その語り口からは、この祭りを通じて過去と現在、そして未来へと続く家族の歴史が紡がれていること、そしてノウルーズが単なるイベントではなく、彼らのアイデンティティや生活そのものと深く結びついていることが伝わってきました。このような個人的な交流を通じて得られる洞察こそが、祭りの真髄に触れる貴重な機会であると改めて感じました。
シーザダール・ベダル:自然への回帰と共同体の祝祭
ノウルーズ期間の最終日、つまり新年から数えて13日目は「シーザダール・ベダル」と呼ばれ、家族や友人と共に屋外で過ごす日です。ペルシャ文化では13という数字は不吉とされることがあり、家から出て自然の中で過ごすことでその不運を避けると信じられています。
この日、街の公園や郊外の自然豊かな場所は、ピクニックを楽しむ人々で埋め尽くされます。家族やグループが色とりどりの絨毯を敷き、手作りの料理を広げ、歌ったり踊ったり、ゲームをしたりして一日を過ごします。子供たちは走り回り、大人たちは笑い声や談笑に花を咲かせます。そこには、年齢や立場を超えた自由な雰囲気と、春の訪れを喜び、自然との一体感を祝う人々の姿がありました。
シーザダール・ベダルには、ハフト・スィーンで飾られていたサッベゼ(芽出し草)を水辺に流すという習慣もあります。これは、一年間の幸運を願い、また育てたサッベゼを自然に還すという意味が込められています。私も地元の方々に混じってサッベゼを川に流しました。小さな新芽が水面に揺れながら流れていくのを見送りながら、古代から続く自然への畏敬の念や、生命のサイクルへの感謝の気持ちが、この祭りを通じて脈々と受け継がれていることを実感しました。共同体全体が自然の中で一体となり、再生と希望を祝うこの光景は、ノウルーズの締めくくりとして非常に感動的でした。
体験から得られた深い学びと読者へのメッセージ
イランのノウルーズ体験を通じて、私は単に観光名所を巡るだけでは決して得られない、文化と人々の生活の深い結びつきに触れることができました。この祭りは、古代の叡智、自然への感謝、そして何よりも家族や共同体の絆を何世代にもわたって大切に受け継いできた人々の精神性を映し出していると感じます。ハフト・スィーンに込められた願い、火祭りの浄化の儀式、温かいイード・ディダーニーの交流、そして自然の中で生命の喜びを分かち合うシーザダール・ベダル。その一つ一つが、ペルシャの人々がいかに丁寧かつ深く春の訪れと生命の再生を祝っているかを物語っていました。
特に心に残ったのは、地元の人々の温かさとおもてなしの心です。見知らぬ私に対しても、家族の一員のように迎え入れ、祭りの意味や習慣について根気強く説明してくれました。彼らの祭りに対する誇りと、それを分かち合いたいという純粋な気持ちが、ノウルーズをより一層忘れられない体験にしてくれたのです。
もし次にノウルーズに参加される方がいらっしゃるなら、以下の点にご留意いただくと良いでしょう。 * 交通・宿泊: ノウルーズ期間は長期休暇のため、航空券やホテルの予約は早めに行うことをお勧めします。国内の移動手段も混雑します。 * 商店の営業時間: ノウルーズ期間中、多くの商店やレストランは休業となります。特に最初の数日間は注意が必要です。事前に開いている場所を確認するか、自炊の準備なども考慮に入れると良いかもしれません。 * 家庭訪問のマナー: もしイード・ディダーニーに招かれる機会があれば、感謝の気持ちを丁寧に伝え、可能であれば小さなお土産(お菓子や花など)を持参すると喜ばれます。食事などを振る舞われたら、残さずいただくことがマナーとされています。 * 文化への敬意: イランはイスラム共和国であり、特に女性はスカーフ(ヘジャブ)の着用が必要です。また、公共の場での過度な肌の露出や飲酒は禁止されています。地元の文化や習慣を尊重し、行動することが重要です。
ノウルーズは、訪れる全ての人に春の希望と家族の温もりを分かち合ってくれる、そんな祭りです。単なる観光としてではなく、古代の響きに耳を澄ませ、人々の心に触れる旅を求めている方にとって、このイランの新年はきっと忘れられない経験となることでしょう。そこには、現代社会が忘れがちな、人間的な繋がりや自然との共生といった大切な価値観が息づいているのですから。